人類オタク垂涎のオリンピック記録映像3選

こんにちは太陽系第三惑星在日宇宙人の原田卓馬です。

人類オタクの私としては、過去の映像記録というのは大変貴重な人類の文化資料であると感じます。近代思想を探索するのに激ハマりしていた時分には、戦時下のプロパガンダ映画や、旧共産圏のSF映画なんかを通じて、当時の為政者がどうやって民衆にイデオロギーを浸透させていたのかを知ることができ、とても勉強になりました。

その中でもナチスドイツ時代の1936年のベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』(Olympia)が、なんともいえない耽美な作品でして、ちょいとご紹介したいなと思ったんですばい。
(全部見ようとすると、冗長でかったるいから寝落ちします)

ベルリンオリンピック1936

Leni Riefenstahl 1902-2003

レニ・リーフェンシュタールというドイツ人の女性カメラマンが監督した作品で、オープニングでじんわりゆっくり舐め回すように肉体美を写し出すシーンなんて、映画(活動写真と呼んだ方がしっくりくる)という表現手法は彫刻の延長線上にあるのだなと感心しました。

彼女はナチス崩壊の後、戦争協力者という不名誉な烙印を押され、死ぬまで非難轟々の憂き目にあうのですが、ナチス党員でもなく、ヒットラーの政治思想に共感するわけでもなかったようで(真偽はわからないけれども)単純に美しい作品を作りたかっただけなのかもしれません。

同じくレニによるナチス党大会の記録映画『意志の勝利』(Triumph des Willens)では、これでもかというほどに「ヒットラーとナチスが最高にホットでクールでめっちゃいけてるぜ」という演出が見事に決まっていて、傑作プロパガンダ映画の金字塔という感じでしょうか。

フルバージョンが消されてしまっているようなのでオープニングシーンだけ貼っておきますね。

Wikipediaにも書いてありますが、34歳でオリンピアを撮影し、45歳でナチス協力者ではなかったという判決を受け、71歳でダイビングライセンスを取得して水中カメラマンデビューし、98歳で内戦中のスーダンでヘリコプターが墜落し、101歳で結婚した後に老衰で死去というレニ・リーフェンシュタールの壮絶でパワフルな人生には思わず感動して目から塩水が流れてしまったものです。

それからしばらくしてYoutubeをザッピングしていたら、歴代のオリンピックの記録映画がうじゃうじゃとアップされているのを発見しちゃったのでいくつかご紹介。

東京オリンピック1964

『犬神家の一族』(1976)で有名な市川崑さんが監督で、興業収入12億円の大ヒットで、当時の日本記録を更新したそうです。

当時の東京の街並みや人々の様子(髪型とか服装とか)の暮らしの風景が記録されていて、民俗資料としてもいい感じです。聖火ランナーが走り抜けていく様子を森の中から撮影したわずか2秒くらいのシーンでがあるのですが、その画を撮る一瞬のためだけに撮影スタッフとカメラを配置したと思うと狂気の沙汰で、103台のカメラと556人のスタッフを使って総制作費3億5000万をぶっ込んだということですからクレイジーざます。

こちらも過剰に美しく演出されており、レニのOlimpiaと同様に「記録か芸術か?」という議論が盛んに行われたようですね。日本が戦後の焼け野原から復興し、高度経済成長に突入しアジアの経済大国としてのしあがってくんだぜ!という国威発揚のプロガンダ映画という向きで観賞するのも面白いんじゃないかと思います。

モスクワオリンピック1980

オープニングセレモニーだけの三時間の映像で、序盤は見てて気が遠くなりそうでしたが中盤以降(1時間55分あたりから)のマスゲームの完成度の高さには圧倒されました。ソビエト連邦の加盟国(ウクライナとかアゼルバイジャンとかグルジアとか)がとっかえひっかえ民族衣装を着てダンスするシーンが続きますが、多様性の極致といった感じで目に楽しいし、東ヨーロッパから中央アジアあたりの文化を知るきっかけには最高ざます!

中でも2時間30分あたりからの10歳くらいの子供達の不気味な群舞が印象的でした。人形を持たせた女の子達の新体操と、棒馬(ケッピヘボネンていうんですね)に跨る男の子達の様子は、児童ポルノすれすれといった感じで「国家による児童への性搾取?」という様相でヤキモキします。

終盤の超巨大組体操と、客席中央の色パネルによる人文字(コレオグラフィーっていうんですね)の組み合わせはラスボス感があって見応え十分。見方によってはひとりひとりの人間が無個性なただのパーツ、壁のレンガのひとつのように扱われているようで気色悪い側面もあるのですが、もしこの壮大な演技に参加していたとしたらえも言われぬ陶酔感・恍惚感・幸福感に包まれるだろうと想像します。

マスゲームを見ると、イワシの群れや草食動物もしくは粘菌が、個性なんてどうでもいい「巨大なひとつの生き物としての我々」を体現している状態を想起します。日本の小学校における組体操の是非が問われる昨今ですが、日教組が強かった時代の教員達の憧れた団結状態の理想型はこれかも知れませんね。

旧共産圏・社会主義国で初めて開催された1980年のモスクワオリンピックですが、ソ連のアフガン侵攻をきっかけに対立国からのボイコット問題で「スポーツと政治」の関係が物議を醸した大会だったようです。

当時の地球はアメリカとソ連の間での東西冷戦まっただなかで、アメリカ側はモスクワ開催決定当初から不参加を決め込んでいたそうです。国際社会からソ連を追放したくてしょうがなかったようですね。平和の祭典なんてちゃんちゃらおかしいざます。

ボイコット組はというと、モスクワ五輪に対抗してアメリカのフィラデルフィアで開催されたリバティ・ベル・クラシックという競技大会に参加したそうです。

オリンピック用語「ステート・アマ」

あれこれ調べていたら「ステート・アマ」という言葉に出会ったので最後にご紹介します。
こういう言葉を知ると嬉しくなっちゃうんだよね。

国家=ステート(state)が膨大な国家予算をつぎこんで選手の育成と生活費を工面するので、プロではない「国費でまかなうアマチュアスポーツ選手」という意味の言葉です。

近代オリンピックは商業的な活動を排除したアマチュアスポーツ大会として始まったため、プロ選手が参加することはできませんでした。しかしアメリカのようにプロスポーツが盛んな自由主義国家にとっては都合が悪いので、それって不公平じゃない?という不満の声があがるのも当然っちゃあ当然だ。

社会主義国における、たとえばソ連の体操選手や、中国の卓球選手なんかがステート・アマの典型例なのですが、日本における実業団所属のアスリートも企業アマ・偽装アマと呼ばれ、ステート・アマの一種に分類されるようです。

最後に

東京オリンピック202(1)については開催しようがしまいが、はっきりいってどうでもいいんですけれども、オリンピックという定点的な視座から浮き彫りにされる時代性や国際情勢というのはめっちゃ面白いです。

近代オリンピックというのは、フランスのクーベルタンが提唱して1896年にアテネで開催されたのが始まりでした。当初のコンセプトは「アマチュアスポーツ大会」で「平和の祭典」でしたが、結局のところ国威発揚のためのプロパガンダであり、イデオロギーの代理戦争であり、金儲けのツールであり、当初の崇高な理想はどこ吹く風って感じであります。

「コロナ禍のインフォデミックの中で開催された東京オリンピック」の記録映像が、未来の子供達に対していろんなことを考えたり、知るための貴重な文化資料になるならば、それもまた面白いなって思ってるところなんです。

最後まで読んでくれてありがとう。

原田卓馬

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